江戸の「連」という場
2025年の大河ドラマ「べらぼう」をきっかけに、「連」という江戸の文化を知りました。
そしたら最近、また「連」と本で再会して、その中で心に残った一文がありました。
「人の集まりとしてのサロンではなく、ある動的な生成の勢いを共に生み出すような場では、個人は他者や共同体に一体化するのではなく、むしろ他者と離れながらあくまで連なる、という特徴を持っていた」
『問いの編集力』安藤昭子(ディスカヴァー・トゥエンティワン)
これを読んだとき、「これって私がSubstackに感じることと似てるなぁ」と思ったんです。
大河ドラマ「べらぼう」の主人公は、蔦屋重三郎、通称・蔦重(つたじゅう)でした。
江戸時代中期の「版元」、今でいう出版社の社長兼編集者のような人です。
喜多川歌麿や東洲斎写楽といった絵師を見出して世に送り出した、江戸の敏腕マーケッターでした。
そんな蔦重の面白いところは、いくつもの「連」に出入りしていたところです。
「連」というのは、身分や職業を超えて、同じものを好む人たちが自発的に集まった場のこと。
狂歌を詠む連、川柳を楽しむ連、書画を交わす連。
そこでは、武士も町人も僧も本名を名乗りませんでした。
俳名という、もう一つの名前で座に着くんですね。
今で言うペンネームでしょうか。
俳名を名乗ることで、その場では武士や商人といった社会の役割から、自由になることができる。
そういった役割があったんだと思います。
そんな「連」という、社会の肩書きを置いてきた場所で、眠っていた才能を発揮できた人たちがいます。
なぜなんでしょうか?
松尾芭蕉も井原西鶴も伊藤若冲も、みんな「連」の中で開花した人たちです。
そう書くと、才能があった人たちが、「連」に集まったと思いますよね?
でも実際は、この3人は「連」という場があったから、才能が開花した人たちなんです。
つまり、才能が場に集まるのではなく、「場が才能を育てた」んです。
その理由を、本ではこんなふうに表現しています。
「おそらく連の人々は、何かにかこつけては相互に才能を引き出し合い、想像力を自由にする風をお互いに送り合うような連なり方をしていたのだろう。
共創の成果ではなくむしろそのプロセスにこそ価値を置くような連なり方だ」
『問いの編集力』安藤昭子(ディスカヴァー・トゥエンティワン)
「連」とSubstack
Substackで書いている人たちは、本名や会社の肩書き・役職を名乗っていない人がたくさんいます。
私もその一人です。
社会や家族の中での立ち位置を一旦脇に置いて、ニュースレターの名前で、自分の言葉を紡いでいる。
これが「連」と似ているなと思ったんです。
Substackは、読み手と書き手の境界もなんとなく曖昧です。
今の日本のSubstackには「読む専門」という人が、まだ少ない気がしています。
だけど、書いている人のほとんどが、同時に誰かの読み手でもある。
たとえば、狂歌の「連」もそれと同じで、座に着く人はみんな、詠み手であり聴き手でした。
もちろん、Substackで起きていることは、連歌そのものとは異なります。
「連」は同じ座に集まって、一つの句に別の人が句を継いでいく、リアルタイムの共作をしていました。
Substackでは、一つの文章を共同で書くことはまだほとんどありません。
でも、誰かの庭で育った言葉が、別の誰かの庭に種を落としていったり、
読んだ誰かの中で何かが芽を出して、また別の文章として形になっていく。
その流れが、「連」が大切にしていたプロセスに、似ているんじゃないかと感じています。
私がSubstackを面白いなと思っているのは、こういうことが起こるからです。
一人ひとりは、ただ自分の言葉を紡いでいるだけ。
だけど、つながりの中から、誰も予想していなかった新しい芽が出てくる。
ひとつずつの足し算では説明できない何かが、つながりの中から生まれてくる。
これを私は、「創発」と呼んでいます。
だから私にとってSubstackは、言葉や想像が育っていく「場」でもあるんです。
「想像力を自由にする風をお互いに送り合うような連なり方」ができる場であり、そういう風に存在したい場です。
しかもSubstackには、この芽を育て合う文化があります。
コメントとリスタックです。
誰かの文章を読んで、自分の言葉を返す = 芽への水やり
いいと思ったものを人に紹介する = 咲いた花を、自分の庭先に飾ること
こうして私たちは、お互いの芽を育て合っているんだと思うんです。
一人で書いているようでいて、実は書き手は読み手と一緒に庭を育てています。
人と人との言葉が触れ合って、時に摩擦が起きて、そこから新しい芽が生まれている。
それに、読む専門の人でも、コメントやリスタックなら気軽に場に加わることもできます。
芭蕉の俳諧も、若冲の絵も、彼らが一人でいたら生まれていなかったのかもしれません。
「連」というつながりの場があったからこそ、創発が起き、芽を出した。
江戸時代の「連」が持っていた創発の性質は、令和のSubstackにも存在しているのではないでしょうか。
江戸の人たちは、「連」という場で言葉を育てていきました。
私たちはそれを、Substackという場所で、もう一度始めているのかもしれません。
社会の肩書きを置いてきた場所で交わされた言葉が、誰かの中で芽を出し、また別の誰かへと渡っていく。
Substackでは、そんな見えない循環が続いている気がしています。
ここは、才能のある人たちだけが集まる場所ではありません。
関係性の中で、Substackという場が才能を育てている。
そんな可能性のある場所が、Substackなのだと私は思います。
みなさんは、Substackでそんな「場」の力を感じたことがありますか?
何か感じていることがあったら、コメントで教えてくださいね。


Substackを始める前と始めた後で、noteの書き方も変わりましたし、Substackには趣味しか書かない、というよく分からない縛りを自分に設けましたが、これが意外と良かったりしました。
AIにより簡単に記事をかけるようにはなったものの、本質を見極める目も養えた気がします。
Xとはやはり違うし、noteとも違いますよね。
最初はSubstackで儲ける、といったような雰囲気が多かったと思うのですが、今は純粋に高め合うような雰囲気があって、まさに「連」になっている気がします。
なんかもう人間の遺伝子?的な感じで組み込まれちゃってるのかもですね!
現代でSubstackを楽しめているのは、うれしいです。