リベラルアーツと教養は同じもの?
その日は朝から、ひとつの問いを持っていました。
「リベラルアーツと教養って、同じものなんだろうか?」
きっかけはたまたま読んだ、美術史学者の神田房枝さんの記事でした。
「リベラルアーツ=教養を広げること」「リベラルアーツ教育とは、幅広くいろんな知識を学んで、それを融合させること」と一般的には理解されているけど、それは誤解だという記事です。
リベラルアーツは、古代ギリシャのプラトンが推奨した教育が原型となり、詳細は割愛しますが、420年に「自由7科」として体系化されました。
自由7科とは、基礎的な学芸として重視される「文法学」「論理学」「修辞学」を含んだ3学と、「算術」「幾何学」「音楽」「天文学」から成る4科のことを指します。
文法学の役割は、複雑な語尾変化を通じたパターン認識のトレーニングで、「部分」を観察して「全体」へと関連づける能力を養うことでした。
つまり、「知覚力を向上させる基礎科目」だったわけです。
神田さんは、「本来のリベラルアーツは、知覚を起点とした知的生産のためにデザインされたトレーニング」だと仰っています。
物事を知覚して、思考して、どう実行するか。
この知的生産をおこなうためにあるのが、リベラルアーツです。
世間で言われているリベラルアーツと、だいぶギャップがありました。
一般的に流布されていることが、絶対に正しいとは限りませんね。
さて、ここで最初の問いに戻りますが、じゃあリベラルアーツと教養って、同じものなんでしょうか?
リベラルアーツが「知覚を起点とした知的生産のためにデザインされたトレーニング」なのだとすると、教養とは違うような気がします。
少なくとも私がイメージする「教養」は、トレーニング技法ではありません。
私の感覚では、「人としての判断の軸を育てる知識」という感じでしょうか。
SBIの北尾吉孝会長の言葉を借りると、教養は「哲学や倫理観を形作って行くもの」です。
つまり、人としての在り方の根本になるのが、教養なのではないでしょうか。
リベラルアーツは知的生産のための技法。
教養は人の在り方。
この記事では、一旦こう定義したいと思います。
ピカソとリベラルアーツ
ということで、リベラルアーツと教養を定義するところまでたどり着きました。
そして今、この二つが今のAI時代において大切だよと、よく言われてますよね。
……なんでですか?
なんとなくはわかります。
大事そうではある。
私も人間力や人間味が大切な時代だとは、常々思っています。
でも何故なのか、自分の言葉で説明しろと言われると……ちょっと怪しい気もする。
そんなことを思いながら、国立新美術館に向かいました。
お目当ての展覧会は、「ピカソ meets ポール・スミス 遊び心の冒険へ」です。
神田さんの記事によれば、絵画の観察こそ知覚を鍛える訓練になるらしいんですね。
せっかくなので、今日は壁に書いている解説を先に読まずに、作品を鑑賞していくことにしました。
この展覧会の面白いところは、ピカソの作品にインスピレーションを得て、ポール・スミスが会場のレイアウトを考案しているというところです。
作品を含めた空間全体がデザインされている。
まるでピカソのテーマパークみたいです。
ピカソのことは、正直、好きでも嫌いでもありませんでした。
ピカソ=恋人が変わる度に、画風が変わるおじさん。
……だいぶ偏った知識でごめんなさい。
親友の自殺で、絵が暗く青くなる。
恋人ができると、バラ色に変わる。
今回はそれが部屋の壁の色と連動していて、絵の印象が空間によって後押しされているような印象がありました。
今日は、考えずに感じてみる。
そうして一通り鑑賞した後に、もう一度戻って観なおしていきました。
まず、ピカソは絵がとてもうまい。
それだけなら、他にもたくさんうまい画家はいたはずです。
セザンヌの影響とアフリカ彫刻(民族美術)の影響を受けてたどり着いた、『アヴィニョンの娘たち』という作品。
ジョルジュ・ブラックと一緒に描き続けた、キュビスムという新たな表現。
自転車のサドルなどを使った、三次元の作品であるアッサンブラージュ。
巨匠エドゥアール・マネの絵画『草上の昼食』を再解釈した作品たち。
変遷を改めて観ながら感じたことは、ピカソの転換力のすごさでした。
何かから影響を受け、それを自分なりにリメイクしてしまう。
その転換力が、ピカソのすごさなのだと思いました。
取り込んだものを一度自分の中で消化して、まったく別の形でリメイクする。
つまり、物事を知覚して、思考して、実行している。
……あれ?
ピカソがやっていたことは、リベラルアーツが目指す知的生産そのものなのでは?
当時、セザンヌの絵やアフリカ彫刻を観ていたのは、ピカソだけではなかったと思います。
ピカソは誰もが見ていたものを自分なりに解釈し(知覚)、分析し(思考)、新しい作品へと転換させていきました(実行)。
そう考えると、リベラルアーツを実践することは日常でもできそうな気がしてきました。
たとえば読書した後に、自分なりの言葉で書かれている内容を捉え直して、感想としてアウトプットする。
あるいはAIと何かやり取りした後に、その意見を解釈し、是非を考え、自分なりにアウトプットし直す。
土台となる「自由7科」に相当する学問を学ぶのもいいのですが、日常で実践できるならそれに越したことはないですよね。
AI時代に危険なのは、AIの言うことを丸呑みすることです。
人が考えなくて済む領域が増えたのは、AIの良いところでもあり、人にとっては危険なところでもあると感じます。
下手をすると、人はAIというテクノロジーの奴隷になってしまう可能性がありますね。
そうならないためにも、受け取ったものを自分なりに転換させる、「リメイク力」が大切なのかもしれません。
美術館を出る頃には、リベラルアーツの解像度が上がった気がして気分が良くなっていました。
……相棒の教養の存在を忘れていました。
リベラルアーツに夢中になりすぎたようです。
AI時代に大切なこと
最初に書いた通り、私の感覚では教養とは「人としての判断の軸を育てる知識」です。
AIの文脈で考えるなら、AIには持つことができない「人として大切なこと」、これを磨いていくことは人にしかできません。
どんなにAIが賢いのだとしても、AIの言うことを受け入れるかどうかを決めるのは、私たち「人」です。
AIは時に、倫理観を無視した発言をします。
使用者に寄り添いすぎた結果、道徳的に誤った方向に誘導する可能性もあります。
だからAIが普及すれば普及するほど、人としての判断の軸となる「教養」を育てていくことが、私たちにとって大切になっていくのだと思います。
せっかくなので、今度は美術鑑賞の文脈で考えてみましょう。
知覚を磨くという意味では、美術鑑賞はリベラルアーツです。
一方で、美術鑑賞を通して、人としての在り方も育まれていくのだと思っています。
絵の前に立って感じたことが、自分の中に知らないうちに蓄積されていく。
それが少しずつ、ものの見方や、人としての在り方に影響していくのではないでしょうか。
私の場合、ピカソの絵を観たことで、「自分の感情を素直に表現してもいいんだ」という気づきがありました。
自分の変化や感じたことを、こんなにまっすぐ届ける人がいる。
そういう在り方も素敵だなと感じたんです。
だからと言って、私がすぐに何か変わるかというと、そうではないと思います。
人としての在り方は、一朝一夕に身につくものではありません。
長い年月をかけて、少しずつ育まれていくものなのだと思っています。
ちなみに私は美術鑑賞が好きなので、美術史を学んだり、西洋絵画をより深く理解するためにキリスト教について学んだりしてきました。
また、東洋思想にも親しんできました。
どちらも、すぐに成果や利益に結びつく学びではありません。
でも、こういった学びが少しずつ私のものの見方や判断の軸になって、人生を豊かにしてくれました。
私はこういった有益さに直結しない学びこそが、教養なのではないかと思っています。
さて、朝の問いに改めて答えを出したいと思います。
「リベラルアーツと教養って、同じものなんだろうか?」
リベラルアーツと教養は同じものではない、というのが私の結論です。
リベラルアーツは、知覚を起点とした知的生産のための技法。
教養は、人としての判断の軸をつくる、在り方の土台。
リベラルアーツが大事。教養が大事。
そう聞くと、「リベラルアーツを学ぼう!教養を身につけよう!」と気負いがちです。
でも実際は、日常を振り返ってみると、誰もが何かしらの実践をしているのではないかと思いました。
本を読んで、自分の言葉で捉え直すこと。
絵画を観て、感じたことを自分の中に残していくこと。
捉え方を変えれば、リベラルアーツも教養も、とても身近なものになってくるはずです。
AI時代とは、人が人にしかできないことに時間を使っていく時代。
答えがすぐに出せることは、AIに任せてしまおう。
でも、その答えを受け入れるかどうかは、人が決めなくてはいけません。
そのためにもリベラルアーツで考える力を磨き、教養で判断する軸を育てていく。
その積み重ねが、AI時代に大切な「人らしさ」をつくっていくのだと思います。
AIのおかげで、人の輪郭が、前よりもはっきりと見えるようになった。
もしかするとAIは、「人らしさ」の価値を私たちに教えてくれる相棒なのかもしれません。


monaさん、「リメイク力」という言葉がとても残りました。
ピカソを、ただの天才としてではなく、見たものを知覚し、考え、自分の表現へ転換していく人として捉えているところが面白かったです。
AI時代の話も、技術論ではなく「受け取った答えを、人間がどう扱うか」というところに戻ってくるのがいいですね。
「AIのおかげで、人の輪郭が、前よりもはっきりと見えるようになった」という一文、かなり好きです。便利な道具の話をしていたはずなのに、最後は人間の顔が見えてくる。美術館帰りの足取りが少し軽くなるような文章でした。
リベラルアーツを新しい角度から見つめるきっかけをいただきました。
リベラルアーツと教養は別ものだと私も思います。
リベラルアーツの理解で、これまで私が触れた中で的を得ているように感じたのは、「精神を自由にするための技術」です。
その技術は直接的な生産には必ずしも結びつきませんが、記事を読んで、ピカソは自身のリベラルアーツの発露として作品を生産した人物として見ることができるのだな、と教えていただきました。
精神の解放の技術を生きたリベラルアーツなオトコ、ピカソ。
その意味でも、リベラルアーツは教養ではないですね。
ピカソが教養を生きたとも、生きようとしたとも思えません:)