「普通」という見えないルール
「普通」ってなんだろう。
最近そんなことをよく考えています。
私たち日本人は、「自分が認識している空間から、異質なものを排除しようとする」傾向があるように感じます。
異質物=普通からはみ出ている何か。
田舎に住んでいると、「〇〇さんが、どこそこで〇〇してた」みたいな個人情報をみんなが共有しているそうですね。
田舎に住んだことがないので本当のところはわかりませんが、都会暮らしに慣れてると、その密着度が「恐ろしい……」と感じます。
これは自分の住むエリアの中に異質なものが入り込んでないか、のチェック機能なんだと思っています。
監視と取るか見守りと取るかで、だいぶイメージが変わりますよね。
空間のルールを守らない「はみ出し者」に対して殊更厳しいのは、日本特有のものなのでしょうか。
世間に合わせる「普通への執着」みたいなものが、無意識下にあるように感じます。
たとえば自分が人より少し体が弱かったとして、普通に週5日・1日8時間で働くのが辛いのだとします。
でも、「普通はもっと頑張れるはず」とか「みんなこれで働いてる」とか、自分の体調や体質よりも、「普通」からはみ出さないことを判断基準にすることが多いように思います。
これは「自分が認識している空間から、異質物として排除されないようにする」というのが、無意識に働いてるんだと思うんですね。
「普通」という正解らしきものの枠の中にいる方がしんどいのに、枠の中に自分を閉じ込めてしまう。
その不自由さが、心身のバランスを崩す原因になっているのではないでしょうか。
私がうつになった時は完全に過労でしたが、 「みんな体調が悪くても働いてるんだから、しんどくても休んじゃいけない」 「寝る間も食べる間も惜しんで働くことが、この会社の普通」 と、会社の「普通」に縛られていました。
会社の見えないルールに適合しようと、頑張って無理していたわけです。
「無理してでも頑張ることが美徳」なんて今はもう流行らないと思いますが、「24時間働けますか?」というCMが流れる時代を生きてきた世代は、まだこの「無理してでも頑張る」世界観で生きがちです。
そして、残念なことにこの世界観を下の世代にも理解させようと、躍起になっているケースもあります。
ただ、「もう考え方が古いからやめよう」と言いたいわけではなくて。
無理して頑張る信仰=「普通」という等式はもう成立しない社会になった、ということを認識しておくと良いと思うんです。
高度経済成長期は、頑張れば頑張るほど結果がついてきて、お金や物質的な豊かさが手に入った。 でも今はもう、そんな時代ではありません。
時代という土台のOSが変わったのなら、その上に積み重なる「普通」も当然変化していきます。
だけど、目に見えて物事が変化するには時間がかかるから、私たちの考える「普通」はなかなか変化していきません。
では、こんな時代をどう生きればいいのでしょうか?
自分の「普通」を取り戻す
「普通」の判断基準を、外側から内側に戻す。
これが私たちには必要なんじゃないかと思います。
「普通はこうだから」ではなく、「自分はどうなのか」を基準にして考える。
さっき例えで出した週休2日・1日8時間で働くのが辛い人の場合、本当はその人にとっての「普通」は、「世間の普通」とは違うと思うんですね。
最近話題になっていたXの投稿で、
「いい加減『ブルーカラーだろうがホワイトカラーだろうが、少なくとも1日8時間、週5日に耐えうる人材は減っている』ということに我々は気づくべき」
というものがありました。
この投稿に反響があるということは、今後はむしろ週5日・1日8時間の方が少数派になり、週4日勤務や1日7時間勤務が普通になっていくのかもしれません。
副業が推奨され、多様な働き方が出てきた今は、自分自身の働き方の「普通」を探究しやすくなってきていると思います。
社会の「普通」って、こんな風に変わっていくものなんですよね。
なのに私たちは、その「普通」から外れることを恐れたり、「普通」から人がはみ出していないかを気にしてしまう。
だから、自分が考えている「普通」の正体は何なんだろう?と考えることが大切だと、私は思っています。
極端なことを言えば、「普通」なんてどこにも存在しないんですよね。
誰が決めたかもわからない、一般的に多数派だと思われるもの。
特定の空間におけるローカルルール。
それが、「普通」。
それを私たちは何故か、絶対的なものとして握りしめています。
もちろん、それが良い方向に働くこともあります。
一方で悪い方向に働くと、「普通」だと思われるものに思考を縛られて、自分や人をジャッジする道具として使ってしまいます。
でも、「普通」って生きやすいんでしょうか?
「普通」に生きたら、みんな幸せなんでしょうか?
そうじゃないと感じるのなら、その自分の感覚を信じることが、今の時代には必要なんだと思っています。
「普通」ではなく、自分の感覚を信じる勇気。
その感覚が「普通」とは違っていても、世間の常識からはずれていても、それが自分なんだということをまずは認めてあげること。
それが第一歩なんだと思います。
多様性が叫ばれる昨今ですが、そのわりには日本の「普通」の圧力はあまり変化していない感じがします。
私は「普通」をあまり気にしなくなりました。
「普通」に合わせたからといって、人生は別に良くならないと体験から学んだからです。
もちろん社会の中で生きる以上、周りに合わせることが必要な場面もありますし、ルールを守ることも大切です。
でも、自分を壊してまで合わせる必要はない。
今はそういうスタンスでいます。
外側の「普通」ではなく、自分の「普通」を生きること。
それは、わがままになるということではなく、自分を大切にして生きるということなのだと思います。
暗黙のルールとしての「普通」ではなく、自分の人生を生きる。
これが私の「普通」です。


うう〜わかります〜〜
幼少期に「普通」を押し付けられて生きてきたので、「普通」という言葉にはいまだに過剰に拒否反応をしてしまいます。
いや、それはあなたの「偏見」だろう、という考えから、人の数だけ普通があるんだよねと思うようになったので、とても共感しました。
普通の線引きなんて最初から決まってないのに
いろいろなところで普通であることを求められてるってよく分からないですよね
ちなみに田舎に住んでるんですが普通の田舎ってどこにあるんでしょうね