日本人と「間」
Substackでは、距離感というワードをよく見かけるなと感じています。
AIとの距離感、情報との距離感、資本主義との距離感、外部評価との距離感、Substackとの距離感…などなど。
文脈は違いますが、「自分にとって居心地のいい距離感を探す」というのが、共通のテーマなんだと思います。
距離感というワードは言い換えると、
間(ま)
ではないでしょうか。
日本人って、すごく「間」を大事にする民族なんですよね。
日本では人が沢山いる場所でもぶつからないと外国人がよく驚いてますが、変な言い方ですけど、日本人は適切な空間の「間」を「無意識に意識」しているんじゃないかなと思います。
電車が静かなのも同じで、他人の空間という「間」を侵食しないようにしてるんだと思うんですよね。
漫才ではよく「間」が大事と言いますが、普段の私たちの会話でも、お互いの「間」を自然と配慮し合っている気がします。
日本人は会話中に黙るとアメリカ人が言っているのを聞いて、静かに聞くというのも日本人特有の「間」なのかなと思いました。
この「間」の感覚が暗黙の了解化しているから、日本はハイコンテキスト文化だと言われるんだと思うんですね。
外国人が日本に来て戸惑うのも当然で、日本は島国で同じ民族同士のため「察する」がしやすかった。
だから、沢山のルールが言語化されてきませんでした。暗黙の了解の大量発生です。
私たちは子供の頃から、電車で騒ぐと「うるさいから静かにしなさい」と叱られ、外出先でゴミが出ると「持って帰るからこの袋に入れて」と言われ、パン屋さんでパンを触ろうとしたら「買わないなら触っちゃダメ」と注意されてきました。
こういうの、他にもいっぱいありますよね?
先日、ある洋食屋さんで3人家族が会計をするところを見かけました。
ホールに店員さんは一人だけで、ちょうどテーブルの片付けをしている最中です。
小学校低学年くらいのお嬢さんが、チーン、とレジでベルを鳴らしました。
そしたらお母さんが、「別に急いでないのに、そんな急がせなくても〜」と苦笑。
お嬢さんは気恥ずかしそうに、「え〜そんなつもりじゃないし!」と言っていました。
日本っぽい光景だなと私は微笑ましく見てたのですが、
『店員さんが忙しそうでこちらが急ぎでない時は、レジのベルは鳴らさない』
という暗黙の了解が、親から子へと引き継がれたな〜とも思ったのでした。
言語化されてない「空気の読み方」って、こういう感じで引き継がれてきたんでしょうね。
あなたの好きな「間」は?
こうして日本人は「間」を大切にして、脈々と暗黙の了解を引き継いできました。
そんな私たちが、今感じている違和感。
それは、
自分の「間」を侵食されている
という居心地の悪さなんじゃないでしょうか。
なんか「間」を詰められてる感じがする。
適切な「間」がない気がする。
言葉にするとこうかなと思いますが、感覚としては「なんか嫌だな」レベルです。
ガラガラの電車なのに乗ってきた人が近くに座ったら、「え?別の場所に座ったら?」ってなりませんか?
あの感じの嫌さです。
今、社会の色んなところで「間」が適切じゃないと感じていて、それが積み重なっていき、なんとなく私たちは疲れているのかもしれません。
この居心地の悪さに対して、自分の「間」の最適解を探しているから、Substackで距離感という言葉をよく見かけるのかなと思ったんですね。
あらゆる事象に対して、「どこに自分を置くと心地いいのか」を半ば無意識に模索してる感じがしています。
AIとの「間」
情報との「間」
資本主義との「間」
外部評価との「間」
Substackとの「間」
どれも正解っぽい情報は溢れていますが、どこに自分のスタンドを置くかの絶対的な正解はないし、自分の居心地のいい「間」は自分にしかわかりません。
Substackひとつとっても、いいねをするか、相互フォローをするか、リスタックをするか、コメントをするかなど、色んな付き合い方がありますよね。
ここから見るとこれが最適解。
でも、違う方から見るとあちらが最適解。
いろんな角度から物事を見る「球体思考」で捉えれば、どれもみんな最適解です。
だから何を選ぶかは、結局その人の好み次第なんですよね。
自分の好きな「間」を選ぶ。
一人ひとりが自分にとっての心地いい「間」を探すことが、足取り軽く生きていくうえで大切なのではないでしょうか。
論理というより感覚的な話なので、頭で考えた答えだけでなく、心で感じた答えも大切にするといいんじゃないかなと個人的には思ってます。
以前の私は昭和OSの資本主義社会ルールに全力でコミットし続けて、結果として鬱になりました。
なので今は「全力でコミットして頑張る!」というところからは、「間」を取っています。
もともと思考が体育会系なのでサボってる感を感じてしまうのですが、実際にやろうとしても心も体もついてこないので、「今の私にちょうどいい生き方をしてるだけ」と言葉を与えています。
バイオレンス映画を連続で観たら、次はほんわかした映画を観たくなるのと同じ…と言ったら伝わりますか?
戦いの気配のするところは、今の私にはちょっと合わないみたいです。
そういう時もありますよね。
今の自分に何がフィットするのか、体験して、考えて、また体験して…を繰り返して探していく。
見つかったと思っても、自分が変化したらまた好きな「間」も変わるかもしれません。
たぶん人生の体験やタイミング次第で、変わっていくものなんですよね。
情報との「間」を考える
ここで「間」の一つの例として、情報との「間」について考えてみたいと思います。
情報が多すぎる現代。
あらゆる情報を受け取ってしまうと、逆に混乱して迷走してしまう危険がありますよね。
何の情報をどう受け取るのか?というのが、情報との「間」の取り方だと思います。
仏教用語に、対機説法(たいきせっぽう)という言葉があります。
相手の能力・資質・境遇やその時の心の状態に応じて、最もふさわしい方法で教えを説くことです。「機(教えを受け取る側のタイミングや器)」に「対する」という意味があります。
これが日常でもすごく大切な姿勢・考え方だと、私は考えています。
例えばここに、
模試で結果が出ないと言う受験生Aくん
過労死寸前まで働いててそれでも会社で結果が出ないと言うBさん
がいたとします。
「今はコツコツ積み重ねる時期だから、すぐに結果は出なくても毎日積み重ねよう!」…とは、Bさんに言わなくないですか?
オーバーキルになる可能性がありますよね。
でも表層的に捉えると、どちらも「結果が出ないことに悩んでいる人」になるわけです。
世の中にある情報やコンテンツは、大抵この「結果が出ないことに悩んでいる人」という大きなカテゴリで発信がされています。
で、悩んでる時ってそういう本を読んで、「そうだ、コツコツ頑張らなきゃ!」って思うじゃないですか。
周りからしたら「頑張りすぎだから休んでー!」ってなるんですが。
人に話す時は「対機説法」的なことを意識することも多いと思いますが、自分が受け取る時は結構ノーガードになりやすいように感じます。
だから何か情報やコンテンツに触れた時、「今の自分にちょうどいいか?」と自分と対話する『対機説法視点』を持つことで、一呼吸置いて情報を選別しやすくなるのではないでしょうか。
情報との「間」を考えたいときに、一つの観点として思い出してもらえたら嬉しいです。
ここまで「間」について書いてきました。
みなさんはこれまでに、もしくは今、どんな「間」を模索してきたでしょうか?
よかったらコメントで教えてくださいね。



「店員さんが忙しそうならベルを鳴らさない」という場面が印象に残りました。
子どもに注意したというより、「間」の感覚が受け渡された瞬間だったのですね。
私は最近、情報との間をよく考えます。
良い情報でも、今の自分には少し濃すぎることがあります。
逆に、数年前なら見過ごしていた言葉が、今になって妙に腑に落ちることもあります。
記事を読みながら、「正しい情報」より「今の自分に合う情報」を選ぶ感覚を大事にしたくなりました。
ありがとうございました。
>人に話す時は「対機説法」的なことを意識することも多いと思いますが、自分が受け取る時は結構ノーガードになりやすいように感じます。
これ、完全に盲点でした。自分と他者だけでなく、自分と自分のあいだにも「間」をつくること。意識してみようと思います。
素敵な記事をありがとうございます!